昭和54年11月18日 月次祭
(音声不良)
その事を私、神様にお取次ぎさせて頂いておりましたら、みなんさんも、あの、ご経験あるでしょうか、あの、蛍が飛びますね、一瞬真っ暗、それこそ、( ? )ぬったような、あの、真っ暗いところに蛍が飛びますと蛍がおを引いてくる、とそういうところ、いうような情景を見かけられた事もあろうと思うですね、蛍くらーい、( ? )光をおをこうやって、それが、私の御心眼には、ぱーとこうなんかで、その、書いたように光のおを引いて蛍の飛んでおるところを頂いたんです。
まあ、蛍の光はここでは霊光という風に頂くんですけれども、やっぱり、その霊光、その光があるから、その、これから先のことが分かったり、または、その、過去の事が分かったり、または将来の事が分かったりするんですよね。
霊光です、まあ、霊徳というてもいいかもしれませんけれども、その謙虚さというのは、それをまあ、学問的に解明したものでしょう、なんの年回りでどうどう( ? )人はこう言うことになるんだということなんです。( ? )また、あの、祈らせて頂いとりましたら、いなずまのような光が走るようにパーと、その、蛍が飛んでおるところを、走るような勢いでの光を頂いた、そしたら、いっぺんでその蛍の光が消えてしまったんです、ね、小さい光、ここに大きな光があったら、もう光は光としての用を立ちませんでしょう、消えてしまうでしょう、小さい光あっても大きな光がここにありましたら、それは消える、それで、私はす心配なさんでもいいですよ、金光様にお願いしたら、もうそんなに心配はありませんよというて、まあ、お伝えして、まあ、安心して帰って頂いたんですけれどもね。
今日はね、不思議にその天地を指すというお届けがずうっと続いたんです、それからしばらく致しまして、あの、伊藤さんがお参りになりました、これはまた熱心なお方、主人が買ってきておりました、その、( ? )もう昨日までで読みあげてしまいました、不思議な事が書いてあります、ね、そして、私が驚きましたことは、この、いわば( ? )でしょうか、こう言う人は、18で両親を亡くする書いてある、まったく私は17で両親を亡くしておるというんです、怖いですね、それに当たるんです、ね、そして、段々読んでまいりますと、もう去年か今年かは必ず私が死ぬようになっておるそうです、そん時に、私は金光様の御信心の有り難さをもう心の底から感じましたというてお届けがございました、ね、そんなに17か8、なら、もう両親をなくするこの人は運命の人だ、そして今、伊藤さんが40か50になられるでしょうけれども、その40なら四十何歳の時にはもう命がないと書いてある、ところが、実際は、私はもう非常ななんか祈って悩んでおると、苦しめよる、まあ、きちがい寿命をするような死に方をするとかいてあった、ね、いわゆる、( ? )をするというのです、なるほど、去年から今年のことを考えてみるといろんなことが起こりました、もう主人がいよいよ医者に難しいというような所も通りましたけれども、おかげを頂いて不思議に助けて頂き、いろんな問題もありましたけれども、もうたんび、たんびに神様の働きの間違いなさを分からせてもろうて、もうただただ、有り難い、勿体無い、とにかく、お役に立たなければおられない、世の光にもならせて頂かなければおられないという、まあ、そういう一心発起されたのが去年からなんです、いうなら、去年から伊藤さんの心の上に大きな光ができだした、それで、もうこの運命はもう止まってしまっておるような悪い運命が御信心のおかげで反対に有り難い、勿体無い、これから先どういう有り難いことが、になってくるだろうかという日にち有り難い喜びの生活をしておるというのです。
みなさん、信心は今の話を聞いただけでも、本気で頂いとかなければいけない、本当に光を受けなければいけない、ね。
嘘じゃないです、その、天地を指すと言うふうはそんなに、その、まあ、だから、今日の荒木から参ってきたと言うお母さんが悲しんだり、ビックリするはずなんです、もうそれがもう的確に合うというんです、しかも、高校の息子がね、自己診断ということが現れておる、それで、今日はこちらへお参りをさせていただいて、まあ、いうならば、そういう蛍が真っ暗い中にこうやって飛んでまわっておる、それこそ、おをひいて、そういう蛍の光がもう( ? )を乱すような、運命を乱すような結果になるようになっておるのを金光様の御信心のお徳で、その徳の大きな光で消えてなくなるほどしの働きをもっておるのがお道の信心だという風に思います。
いなずまのような光がパーと走って、その、蛍の光をですね、あの、消した時に、私、ハッと思ったんです、そして、福徳長ということを頂いたんです、そしてまた、( ? )、みなさん今日ごらんになっとったように、ふくとくちょうは、今日は大きな箱が二箱参りました、あれは、じんきゅうえいのお酒なんです、上特級ですから、ね( ? )、福徳と長と言えば教祖金光大神様のお徳だなと私は直感しました、ね、その、福徳のおさというのです、おかげのおさ、おかげの頂けれる、いうならば信心があるとしてもです、そのおさであるところの、長である所の信心が教祖金光大神の御信心だと、ね、その教祖金光大神の御信心をそのまま今現しておるのが合楽だと言う風に私は感じました。
先ほど、高橋さんがお届けなさいますのに、今日は箱崎教会の御大祭でございました、兄弟、先生方、( ? )帰っております、2、3日前から、それで、まあ、総代としてという訳でもないけれども、まあ、近所に住んでおりますから、今日はあちらの御大祭におかげを頂くというてお届けをしてから、それは、アンタがお参りするなら喜びなさるんだろうと、なら参って下さいという事でした、今日、先ほど、お参りしてみえてから、今日は先生おかげを頂きましたが、本当に大祭らしい大祭を拝ませて頂きました、そして、お直会中、もう家っての方では、とても( ? )いたしました、そのぶりが懐妊だというて、騒いでおる所だった、大きな大ブリのお供えがしてあった、ところが、それを、まあ、( ? )訳でしょうね、御直会に出す為に、そしたら腹からそれを、どんぐらいちいうたかね、( ? )タイが出てきたそうです、(笑い)でその事を私はお届けさせて頂いておりましたらね、ブリがタイ、まあおかげを生んだという意味の事を頂いたんです。
ブリといいや、いうならば、合楽の御比礼のことじゃないでしょうか、あちらはもう熱心にもう、あの、いやば、合楽理念に基づく、いやば、合楽理念を実証しておられるお教会です、手続きは違うけれども、ね、それこそ、ブリがタイを生んだ、いうならば、今日のお月次祭を見られてもブリが何本ですか、ね、6本か7本かあれだけのブリの、大きなタイが何枚も何枚もお供えになった、今日はもうそれこそ、海川の草々のものが野菜と一緒に盛ってあったのは、マツタケにまあ盛ってあって、( ? )固まっておることは、あのようにしてお供えにしてございましたでしょう、海の物、ね、海川山の草々の物がです、ね、御神前に、それこそ( ? )お供えさせて頂いた、真ん中には( ? )ふくとくちょうのお供えを中心に、それこそ、何十本あるか分からないほどしにたくさんの御神酒のお供えがあっております、そういう、いわば、ブリブリとした合楽の御比礼を教祖生神金光大神の福徳の長(おさ)その長と言われる、その流れを合楽に頂きとめておるからであり、頂いただけではいけません、それが現れなければいけません、皆さんの一人一人の上にも、今日、新たなお参りをした、そういう( ? )の、もう息子がです、それこそ、( ? )会うように悲しんでおられるお母さんが、いわば、福徳長のその光に、光、ひかされ、だされて、ね、安心のおかげを頂いて、帰られた、ね、箱崎の( ? )に、それこそ、ブリが、ブリがタイを産んだようなおかげが頂けた。
今日の、福徳長のお供えは、先日、熊本の日奈久教会の御大祭でした、もう、今度の御大祭は( ? )御大祭でしたというて、信者はどうとしてから、富永先生は、あのお神酒はお供えに持ってきたんです、ね、ブリブリとしたおかげでしょう、お米の( ? )でも、何表でしたかね今日、( ? )大分の山の中からあれはお供えがあったんです、山のお米は美味しい、しかも、大変な出来がよかったからというて、2、3日前、ご主人が、お供えに持ってまいりました。
昨日、昨日でしたか、今日でしたか、その、たくさん、あの、立派な座布団が15枚持って来ました、だれが持ってきたか分からんのです、布団屋さんが持ってきとる、ただ、なんちうたか、なんとかさん、久保山さんのご親戚だとなんかいう、だから、ここに一回も参った事がない、けれども、久保山さんを通してお願いをして頂いておることが、不思議におかげを頂いたから、ね、お礼にお供えをさせて頂きたいといったようなお供えで、ならご神前があのように賑やかになる、いわば、ブリブリとしたおかげ、それは、福徳長、それは、教祖生神金光大神の御神徳の現われである、その流れを合楽が受け止めて、そして、その受け止めたその御神徳をみなさんにこうやって頂いてもらっておるというのが今日、合楽の御比礼なんです。
つぶ、致しておりましたら、佐賀の空閑さんがごしんさん御一緒にお参りになりました、これもやっぱり天地長(おさ)でした、それで、今日の話を聞いてからです、もうこの話をテープに入れて帰られました、もう本当にどんなに安心、もうとにかく夜中をこうやって、蛍の光はこうこうやって混ぜくっとるような感じですね、ですから、その混ぜくられた、まあ、その総代に当たる人は悲しい事でしょう、まあ、不安な事でしょう、けれども、そういう光を消すほどの光におうた時にです、初めて、そこから、人間の真の助かりということの糸口が頂けれることになるのです。
教祖金光大神の御信心が福徳長であるならば、その、福徳の、言うならば、流れを合楽が受け止めた、合楽が受け止めただけではない、そのようにして、初めて参ってきたご信者さんの上にでも、そのいなずまのような明るい光をもって、それを消していく働きを合楽ではしておる、いよいよ以って、合楽の信心が世に問われる、また、問わなければ成らない、いわゆる、和賀心時代をいよいよ広げていく所のお役に立たなければならない、そのためには、皆さんの信心がです、また、合楽でみなさんにこう光を与えておるように、皆さんがまた皆さんの周囲にその光を、ね、いうなら交流の和とでも申しましょうか、を広げにも広げていかなければならない、そういう皆さんには使命があるんだということでございます、ね。お徳を頂きゃいけんです、ね。
昨日は、え~、伊万里の吉富という、壮年会の時に司会をされた方なんです。お参りをしてみえました、これは私共の親戚にありました、いまえもん、仙台のいまえもんという人が、名人の( ? )がおられました、その人が作ったお湯のみでした、もう百年ぐらいたつだそうです、それを持ってみえた、それはもう、見事な茶碗です、それに、こうせいじの老松の絵が手書きで書いてあります、もうとにかく白という色の深い、深さ、いや、まあ、とうの秋というふうに頂いておりますが、その白の色の素晴らしいこと、ただもう、こう言う白じゃない、いわゆる、深さのある白です、ね、そういうお湯飲みを頂きましてから、ここに、御結界におかせて頂きましたら、私、御結界で冷たいお茶を頂いておる、これぐらいばかりの、これは梅の絵が書いてある、金で梅のずがらのお湯のみである、それとこれとこう見合わせた時に、あらっ、これは丁度、松と梅が揃うたというて私は思うた、ね御結界のこの机の上に、松と、言うならば梅の茶碗が揃うた、これに、竹が揃うたら松竹梅だなと私は思うた、そしたら、神様からね、 ★ 久富繁雄さんの姿をチラッと頂いた、あらっ、久富繁雄さんは、いうならば、あの、竹の性根のように頂きます、竹というのは素直ということ、( ? )竹、( ? )も竹、まあ、あそこは竹尽くしです、あそこへ行くとだから、竹のところの塀まで竹の模様がいっとるというように竹尽くしで、今度のお家はでけておるような( ? )、柱まで竹という意味じゃないですけどね、(笑い)、いいや、かやの柱に竹のあっ、竹の柱にかやの屋根ちいわれますよね、けれども、そこまでは徹底しないですけどね、もうとにかく竹尽くし、竹のお知らせを頂くと久富繁雄さん、久富繁雄さんを頂くと竹のこと、ははぁー、昨日に限ってお参りをしていなかった、朝、ね、それは、昨日が、あの、合楽会だから、どうせ、晩に俺はお参りをするから、お前が朝参りをしてくれというて奥さんが参って来ておられた、なるほど、昨日、繁雄さんが参ってきておられたら、松竹梅のおかげが御結界の上で頂けたものに、おしいことをした、まあ、今夜参ってきなさりゃ、ね、それでお詫びの印と私は思うておったら、とうとう夕べもお参りが出来なかった、とうとう松竹梅になりそこのうた、ね。 松竹梅と言えば、有り難い、有り難いと言うおかげである、ね、そういう神様が下さろうとするおかげを私共の信心の、いうならば、不行き届きというか、実意のかいだというか、これは、まあ、限りがありませんことですけれども、小学生は小学生なりに、中学生は中学生なりの信心があると思うです、ね、例えば久富繁雄さんあたりのようにもう日参だけではない、それこそ、もう一生懸命の御用に打ち込んでおられる、まあ、いうなら、大学生の信心というてもよいでしょう、ですから、その大学生だけの信心がです、ただ自分の自由で一日かくということになるということは今度は大変、おしい事である、松竹梅のお徳を下さろうとしておるのに、まあ竹や金というて、松竹になってしまう、いや、松と梅になってしもうた、それでも、取り組ませていただく私は、まあ、夜参ってくるというか、夜参ってきたらそこでお詫びをさせてもろうて、プラス、マイナスとこう思うておったけれども、昨夜のお参りも出来なかった、こうして見ると日参も出来ない、時々しか参ってくるものはおかげを受けられる、そこが、いうならば、信心のね、今日はじめて、荒木から参ってきた人がおかげを受けて帰ったように、それは、もう信心の程度である、幼稚園もおりましょう、小学生もおりましょう、中学も大学もおりましょう、ね、それは、大学生としての信心です、久富繁雄さんには求めておられる、日参するだけではない、御用するだけではない、例えどういうようなことがあっても、そこを貫かせていただく所から松竹梅の徳を受けさせて下さろうとする神様の働きを思わせてもらい、分からせてもらわなければいけない。ね。
神様に、その、松竹梅に( ? )ことをお願いをさせてもらっておりましたら、★たけかんむりに、たつということを頂いた、みなさん書いてください、たけかんむりに、あの、立ち上がるの立つです、これは笠(りゅう)という字です、ね、いうならば、ね、竹が参ってきたなら、立ち上がるように言えと私は思うた、ね、昨夜参ってきたならその事を話そうと思うた、昨夜は参ってこなかったから今朝からも話したことでした、ね、貴方の信心に、まあ、いうならば、欠点はないけれども、ここんところの一根性出さなければならないところに、出さないところにです、あなたの大学生としての、いうならば、信心に、いうならば、迫力が欠けておる、だから、これはどうして、こんな人間だからというて、それをそのままにしておけばです、もう神様が次のお気付けもお知らせも下さらんようになるでしょう、いうなら、大学も中途で終わってしまうでしょう、松竹梅も、松と梅だけに終わってしまうでしょう、ね、松竹梅のおかげ、お徳を頂かせていただこうと思えば、そこん所のおかげを頂いて行くということを、なら私から見れば難しいではなかろうように思うのです、見やすかろうごとあるです。ね、けれども、子供にとっては難しいですけれども、だから、信心は好きにならなければでけんのです、信心が楽しいものにならなければでけんのです、けど、そう食いしばって修行をさせてもらわにゃんならんということでは、まあ、( ? )ご無礼しようか、まあどうせ今夜参るけんでということになる、そこから、ね、一つのことが出来ますと、ね、一言が二言、二言が三言、抜けていくようになるのです、おそらく、奥さんに言うておられたようにです、ね、今夜は合楽会からお参りをするから、今朝のお参りはお前がしてくれ、確かに参られるつもりではったでしょうけれども、そこに、ね、一つのことが抜けたら次々とこう、抜けていく、( ? )も何か都合があってお参りが出来なかったんでしょう、ね、ですから、私共がね、信心は本当にこう積極的なね、信心をさせてもらわなければいけません、これは私の信心の流儀でもございます、だから、私はおかげを頂いたんです、いうなら、水も漏らさん信心というのはそういう信心をいうのではなかろうか、もう行きがけここにお参りしとるけんで帰りには参らんでいい、ここの前を通って帰るなら、ちょっとおらずにはおられないというのが私の信心でした。
信者時代に、親教会に、まあ、久留米あたりにいろんな信徒会なんかありますと、そのつど、ご一緒に、ね、お届けをしてお参りをします、終わってから他の( ? )もうちょっと帰られます、私はあれからまた、ちょっと、あの、松中にございますから、そこへ行って、帰りのお届けをして帰るんです、たったそれだけのそう一代なのです、しかし、その善導寺の、その、このバス通りからもし町内まで行く何丁かの間にもしおかげがあったとするならば、そのおかげを受け漏らすことになるじゃないでしょうか、ね、昨日、久富繁雄さんに、いうならば、松竹梅の徳を下さろうとする働きを感じさせて頂いて、ね、いうならば、一日お参りが出来なかったと言う事で松竹梅の徳を受けそこねた、おそらく、また次のチャンスがあるでしょう、また次のチャンスがあるでしょう、けれども、あまりにこれを繰り返しよると、しまいに神様の方が( ? )もうこの信者はここどまりということになるじゃないでしょうか、ね、これは、日参と決めたら日参、ね、お月次祭だけの人は決めたらお月次祭だは、ね、それは、その人の信心の程度ですから、節度を持った信心、それを、私は本当に行き届いた信心とはそういうことだと思うんです。
大払い信行5巻と決めたら5巻、10巻と決めたら10巻、できんことなら1巻でも、これだけは365日欠かしたことがないというような生き方の信心にならないとどこから大きなおかげがそのふうになってしまうか分からんのです、金光大神の、いうならば、福徳長と言われる、ね、いうならば、福徳の徳、様々なお徳もありましょうけれども、その長とも長とも思われる、あらゆる宗教もありましょう、けれども、そういう難儀をいっぺんのもとに一つ光、大きな光で消し飛ばせれるような宗教があるだろうか、そういう光を、なら金光教の教会のすべてが、現しておるだろうか、( ? )生神金光大神の、いわゆる、福徳長といわれるようなお徳があるのだけれども、銘々の教会にそれを頂きとめておるのであろうか、頂いておってもそれを皆に現しておる教会があるだろうか、ね、。 今日、( ? )なる大きな教会のご信者さんがた、総代さん、それとあそこの幹部の方達が、3名でお参りをしてまいりました、この頃、たまたま十三日会にお参りし合せてから驚いてしもうた、( ? )おかげを頂きたいといいよったら、( ? )参ってきた、ちょうど、御祈念が済んだ後、早よう内の先生も立派な先生ですけれども、とにかく、人情教になっております、これは、私の教会だけではない、今日の金光教の教会はみんな人情教です、こちらに参ってお話を頂きよると、その人情というものが使われない、もう、それこそ、神情一つでお取次ぎはなされておるということを実感した、これは合楽にいかなきゃ助からんというので、三人で今朝からも参ってきた。
夕べお夢の中に、合楽( ? )じゃなかったかな、建設、なんかきかなかった、合楽ともいいござる、建設のなんとかのおかげということを真の信心と頂いた、そこで、お参りをしてから、そういうお届けをしていって下がられた、そして、また、別な( ? )合楽建設費としてお供えをなさった、今朝からお夢を頂いとったという、それが真の信心と頂いた、もうそれこそ、真の信心、真の信心というて、ね、真の信心を追求し、真の信心と思うておりましたら、なるほど、13日会で聞かせていただくお話の中からそれを少し分かりかけた気がする、そしたら、建設費ということを頂いたから、ね、真の信心が頂きたいばっかりに、今日はその建設費をお供えを持ってみえた、それで、私が申しました、人情教でお供えをしたっちゃ真の徳は得られないよと、いうならば、神情から生まれてくるところの真であって初めて、神様が真の信心として受けて下さるんだ、だから、真のおかげが必ず伴うんだという事を聞いてもらいました、ね、真のことというても人間心じゃ、どんなに親切、真心と思うておってもお道の信心でいう真にはならんのです、お道の信心で言う真というのは、いわゆる、教祖金光大神の御神徳をそのまま受け止められる心だ、それは、人情では受け止めることは出来ません、神情をもって受け止めるのです、その神情をもって受け止める、それが、なら今日の合楽の御比礼なんです、それが、いうなら、天地( ? )現れてくる所の様々な難儀とか災難というようなんでも、ここにお取次ぎを頂いた途端に、それこそ、かってすように消えてなくなるような、それがないのじゃない、あるとはあるだろうけれども、小さい光は大きな光の前にはもう顔色なしということなんです、そういうおかげが受けられる、いうならば、私とみなさんの間柄なんです、そういうおかげが受けられるんです、また、みなさんも頂かれるんです、それを頂くことのためには、今日は久富繁雄さんのお話をさせて頂きましたが、もう今日一日ぐらいはご無礼をしてもよかろういったような事が繰り返されておったんでは、本当の、いうならば、どこから、水も漏らさん信心といわれる、その水が漏ってしまうやら分かりません、ね、信心が好きにならなきゃならない、為にはね、それこそ、好きな人の心で通うように、ね、もうさっきからいうたけれども、もう( ? )おかしかごたるばってん、いかにゃんおられんという心なんです、もう一回し参ったけん帰りはよらんでよかろうちうことで、もうくうじつを作ってでもよらずにはおられないというような信心が好きになる手立てをみなさんこうじゃなければいけません、ね、そこから、神様とまた大変、いわゆる、合楽し合う世界が生まれてくる、ね、そこから、生みなされてくるおかげを皆さんも自身、ご自身のお家で現していかなければいけません、ね、それを、また、みなさんの周囲に広げていかなければいけません。
今日、私がいう天地( ? )という、三つも続けてお取次ぎをさせて頂いて、ほぉー、合楽にそういう力、そういう働きがここにがここには、いわゆる、金光大神、福徳長の光というものがここにあるんだと言う事なんのです、ね、いうならば、( ? )こうやって、その混ぜくってあるような感じがしますね、そして、なら伊藤さんじゃないけれども、確かに天地を( ? )に現れておるように、17の時に両親をなくする、自分は18の時に亡くしたこういっておられます、それがずうっとおうておる、そして、おうていないのは去年から今年のことだけがおうてない、もう命がない、その命がないというのも( ? )難儀な問題、のいろうぜいになってしまわなければならないような運命の私が、もう去年から一心発起した、真の信心を頂いてそれを現して行くおかげを頂いて、難儀な人にもお話をすると助かるほどしのおかげに段々なってきた、言うたら、もうこの世にはなかったかもしれない伊藤という女性が、去年から今日、またこれからも行き続けていくことだ出来るであろう、まあ、金光様の御信心という信心はこんなにも有り難いもんだと伊藤さんが実感しておられます、私はそれを聞いて、また、そういうお取次ぎを金光大神のお徳というのはたいしたものだということを改めてまた思わせて頂いた、その金光大神のたいしたお徳を、合楽ではここに受け止めておるということなんだ、その事実が今日のお月次祭のこの、お供えなら、お供えの中からでもです、いうなら足ろうた、海山川の草々の物がです、ね、( ? )、お供えがでけておるということは金光大神の福徳長にあわなければいただけることではないという事、その徳が皆さんに、そして、皆さんからまたみんさんの周囲に広がっていくおかげの世界がいよいよ目指さなければならんという事でございます。
どうぞ。
末永静行
2005年7月17